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バックナンバー VOL.98~100

明智憲三郎の著作を読み回った桶狭間古戦

 「歴史捜査」や「蓋然性」(ある事柄が起こる確からしさ)は、近年知った言葉である。これらは、明智憲三郎氏の著作でベストセラーになった「本能寺の変431年目の真実」(2013年)や、「織田信長四三三年目の真実」(2015年。書名の数字はそれぞれの著作の表記)で紹介されている同氏の造語である。様々な文書などを証言として吟味しながら「蓋然性」を固めて、本能寺の変などの新説を打ち出してきた。同氏は、光秀の子孫とのことであるが、そのこともご自身で調査を進めておられる。

 明智氏は「織田信長四三三年目の真実-信長脳を歴史捜査せよ!」で、桶狭間の戦いについて偶然・幸運で信長が勝利を得たのではなく、勝つことを計算して臨んだ結果という新説を披露している。①信長とその父、信秀の行動には、中国の兵法を十分に学び応用されていると細かく分析し、②戦いに従軍したと思われる太田牛一の「信長公記」の記述を元に今川軍に対する信長の戦術を論証する、という流れである。とりわけ、「信長と孫子、呉起」の仮想軍議ということで、今川軍に勝つための戦術を孫子、呉起の兵法書から多く引用して説明していることは分かりやすい。なぜ信長が勝利を得たのかということが同氏の新説の中心であるが、「信長公記」や現地調査を踏まえた結果から、戦場についても分析されている。

 豊明市の古戦場伝説地は中京競馬場駅を降りてすぐ近くであり何度か行ったので、桜花学園大学での講義を終えた後に、大学から南へ、さらに西へ、北の名鉄有松駅へと歩いた。桜花学園大学のすぐ西側の釜ヶ谷は緑区になり、信長軍が突撃を開始したらしい場所とのことである。南に向かって緑区桶狭間の古戦場公園には、標高をわずかに下り徒歩で10分もかからない。

 古戦場公園から西に緩やかな坂を登り、明智氏が義元の本陣があった「桶狭間山とは、先駆隊の鳴海城方面の様子が見える高根山周辺」という地域に至った。標高50m程度であるが尾根筋に近いような道を選んで右折して北、有松駅方面へ下ると、住宅のすき間から北西方面の視界が開ける。今川軍本陣が次の行動に向けて下りた北の谷筋、国道1号付近であろうが、そこへ信長軍が奇襲したと同氏は分析している。

 明智氏の説明では「信長公記」には「東に攻めたとわざわざ書かれており」、豊明市方面へ今川軍は敗走しながら戦ったということである。緑区側にある解説板では、信長軍は今川本陣を南へ攻めたことになり、「信長公記」の記述とは合わない。魏志倭人伝の解釈の一つのように、方角が間違って記述されたというような主張が出るのではと思う。

 桶狭間古戦場保存会(緑区)はホームページも開設して、熱心に催しを重ねている。豊明市は「豊明市史 資料編補二 桶狭間の戦い」と桶狭間に1巻を費やしており、漫画の資料も別冊で作成している。大軍の今川軍は、丘陵や狭い谷に分散していたであろう。戦場も移動・分散して、一帯が戦いの場になったと思う。歴史の流れから見ると桶狭間の戦いで義元が討ち取られた場所や本陣をはっきりさせることは意味があまりないであろうが、名古屋市や豊明市の地元の観光振興にとっては重要で、関係者の長年のご苦心には頭が下がる。明智氏のブログ「本能寺の変明智憲三郎的世界天下布文」では、「義元本陣は名古屋市・義元終焉は豊明市」が明らかで、名古屋市と豊明市が仲良く手打ちをしたらいかがかとのことである。ちなみに、旧知の豊明市職員によれば、2市の協力は進んできているとのことであり、これから歴史文化を巡る共同の楽しい催しが開かれていくことを期待する。

 

(文責:主席研究員 田辺則人)

地域の防災活動を担う消防団・水防団のいま

 九州地方や愛知県での豪雨災害をはじめとして、2017年も全国各地で水害が数多く発生しています。都市化の進展や山林の荒廃、ゲリラ豪雨の増加によって、水害発生のリスクが高まりつつあり、地域をいかにして水害から守るのかが課題となっています。

 近年、「共助」や「自助」の見直しの議論が進められる中で、自主防災組織をはじめとする住民によって構成される防災組織が、地域における防災活動や災害対応の担い手として見直されつつあります。住民が団員として参加する消防団・水防団は、古くから地域に根差した組織として地域で受け継がれており、防災活動や災害対応の担い手として地域において中心的な役割を果たすことが期待されています。

 古くから水害による被害に悩まされてきた木曽三川流域の輪中地帯では、消防団が水害の防止や水害時の救援などを行う水防団を兼務しており、水害予防や水害発生時の対応の要となっています。水害の発生が見込まれる場合には、土のう積みなどの水防活動を行い、水害が発生した場合には輪中堤防の締切りやボートを使った救援活動を実施します。また、水害の危険性が高まる5月から10月の期間には、土のう積み、堤防への杭打ちといった水防工法の技術講習会や技術を競う大会が各自治体で実施され、水害の発生に備えています。

 

■変わりつつある消防団・水防団

 消防団・水防団は地域における防災活動や災害対応の中心的組織として活動を行ってきましたが、現在では団員の減少や不足に悩まされている消防団・水防団が少なくありません。自営業者の減少や都市部への通勤者の増加は、その傾向に拍車をかけています。こうしたなかで、輪中地帯の消防団・水防団では、各分団が独自の工夫をこらし、団員の確保や活動の活性化を図る事例が数多くみられます。

 団員確保や活動参加を促進する取り組みとして、下記のようなものがあります。①地域における防災活動の担い手としての知識や技術を高めるため、防災に関わるNPO団体と連携して講習会を行い、団員の防災士資格取得を推奨する。②団員の勧誘を自治会だけに任せず、消防団・水防団員が自治会役員とともに住民の家を訪問し、消防団・水防団の活動内容について説明を行って、活動への理解を得て加入してもらう。③新しく越してきた住民が地域での知り合いを増やす目的で消防団・水防団に参加することもあるため、市のスポーツ大会に分団でチームを組んで参加する、団員間の交流行事を増やすなど、団員間の親睦を高める行事を増やす。④訓練の回数を減らす代わりに、団員が予定を合わせやすい日時に訓練を集中的に行うようにする。

 このように、団員の活動参加や団員間の交流の拡大、災害や防災に関する知識・技能の向上を図ることができるよう、従来の消防団・水防団の組織形態や活動内容を少しずつ変化させつつ、各分団で多様な取組がなされています。このような取組を通じて、若い世代の住民や新しく地域に越してきた住民の加入を促進することは、過去に発生した災害の情報やこれまで培ってきた防災・災害対応のための知識・技能を継承することにつながっています。

 

■地域社会の変化に対応すること

 地域社会が変化していくなかで、これまでのように団員を確保することが容易ではなくなっています。若い世代の住民や他の地域から引っ越してきた住民を、いかにして消防団・水防団に取り込んでいくのかが、組織や活動を維持する鍵となります。

 輪中地帯の消防団・水防団の事例をみると、消防団・水防団は地域に根差した防災組織として長い歴史を持つ一方で、たんに伝統的な組織として存在しているのではないことがわかります。慣例や伝統にとらわれるのではなく、時代に合った組織のあり方や活動内容を検討し、実践しながら、地域社会の変化に柔軟に対応しているのです。このように、地域に根差した防災活動や災害対応のプロフェッショナルとして、消防団・水防団が活動を続けていくことで、地域の防災力向上にもつながることが期待されます。

 

(文責:研究員 近藤 康一郎)

江戸中期の人口減少と少子化社会

■本格的人口減少時代の到来

 2015年の国勢調査では、日本の総人口が1億2,710万人となり、調査の開始以来、初めて人口減少となりました。

 私のような昭和生まれの人間にとっては、若かりし頃、人口が増加するのが当たり前で、減少するということを具体的なイメージとして描くことはまずありませんでした。

 しかしながら、人口を研究している研究者の方々の論文を見直してみると、すでに1970年ごろの出生率の推移等から、近い将来に日本の人口が減少基調に転ずることは確実なところとなっていたようです。

 

■江戸時代にもあった人口減少時代

 日本の歴史を振り返ると、過去にも人口減少局面はありました。一つは平安~鎌倉時代であり、もう一つは江戸時代後半です。

 江戸幕府が成立した1603年頃には1,200万人であった人口が、18世紀の初め頃には3,200万人まで増加しています。しかしそこから明治期を迎えるまでの間の人口はほぼ3,000人を少し上回る程度で推移しており、増加していません。

 その要因は、小氷期とも言われる寒冷期にあって度重なる飢饉に見舞われたとか、新たな耕地拡大がなく人口の抑制要因となったといった分析があるようです。

 

■江戸版の少子化対策

 江戸中期の人口減少と現在の人口減少を比較してみるのも面白そうと考えていた時期がありました。次は、そんなときに目にした新聞記事からの引用です。

 

 江戸の「えーっ」. 「少子化対策」といえば、ここ10年ほどの日本の重要課題だが、実は江戸時代にも行われていたらしい。江戸時代末期の人口停滞の背景には、女性の晩婚化や少子化があったという。特に北関東では18世紀前半から後半にかけて、江戸など都市への流出も影響し人口が20%以上も減った。人口減に悩んだ藩の中には少子化対策を行うところもあった。妊娠した女性を登録して江戸版「母子手帳」を作成、それにもとづき米や金などの養育手当を出すというものだ。残念ながら効果のほどは不明というが、まさに歴史は繰り返す?2006.1.1 朝日新聞朝刊)

 

 「母子手帳」をつくった藩がどこなのかはわかりませんが、少子化に悩んだ地方政府(藩)が、今で言うところの「児童手当」の制度を用意していたことになります。

 また、江戸末期の人口停滞の背景に女性の晩婚化があったというところも気になるところです。

 

■地方が定めた赤子養育仕法

 次に、「江戸」、「人口減少」や「少子化対策」をキーワードに検索すると、面白い研究論文がいくつか出てきます。

 例えば、江戸中期、とくに東北地方の太平洋側では人口減少が顕著となり、地方政府が積極的に労働力人口の増加策を講じたというものです。

 労働力人口増加策の一つは、他領からの人口の受入れ促進策です。「それは越百姓(引越百姓)の奨励」で、今も移住者の受け入れは、人口減少に苦しむ地方では重要施策となっています。

 また、もう一つは出生数の増加策で、これは「赤子養育仕法」と呼ばれている人口増加策で、現在の児童手当法に相当するものです。

 こうした法律を中央政府(幕府)でなく、地方政府(藩)が定めていたことが面白いところです。日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によると、赤子養育仕法とは、『(略)会津、仙台、秋田、鹿児島など九州、および東北地方の諸藩がとくにこの仕法に熱心で、藩政改革の一環として実施されている。』とあります。藩によって手当の内容や対象者の条件は様々であったようです。

 

■人口増加策の効果は

 このように江戸中期において人口減少に苦しんでいた地方がいくつもあって、移住者の受入や児童手当に相当する人口増加策を色々と講じていたようです。しかしながら、その効果が顕著に現れたという記事や論文にはなかなか辿り着きません。この点も「歴史は繰り返す」のか?

 このほか、江戸期の男女比はひどいときには100:55とあまりにも極端で独身男性が多かったとか、武家の離婚率が高かったので、江戸期の離婚率は現在の米国並みであったとか、「え-っ」と驚くことが少なくありません。

 

(文責:押谷)